佐藤慎司のことば/文化教育を考える

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zoom RSS 私が日本語教師になったわけ…長いです。(お時間のある方だけお読みください!)

<<   作成日時 : 2012/01/29 05:59   >>

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私の世界観を変えたのは大学時代のゼミです大学時代の私の専攻は経済学で私が3年生になりゼミを決める前の年にO先生はアメリカに一年研究で行かれていました。ですから、私の一つ上の学年、つまり、先輩のゼミ生はおらず、ほんとにこじんまりしたゼミだったんですね。たしか日本人学生5人、留学生4人という内訳でした。その当時は中曽根首相の留学生受け入れ10万人計画が進んでいましたが、ただ受け入れるだけで、国が何もケアしないことが問題になっていました。そこで国が考えたのが、留学一年目の学生には日本人チューターをつけるというものでした。私がO先生にお願いされた王さん(実名ですが、王さんなんてたくさんいますからねえ)は日本語はもうほんとに上手で、年齢は私よりも一回りぐらい上の方でした。日本人チューターの仕事は一週間に一度1時間程度会うことでした。今考えればO先生はアメリカから帰ってきてすぐで、アメリカでの大変な生活を思い出し、ゼミに留学生をたくさん受け入れたのではないかと思います。

今でも記憶に残っているのは、それがものすごく楽しかったことです王さんは私とおなじ(すみません、王さん!)で、おしゃべりな方でしたから、本当によく話しました。例えば、日本の生活習慣について、大家さんからお土産をもらったんだけど、どうやってお返しをすればいいとか、そういった類いのことを話しただけでなく、王さんは中国のこともいろいろ話してくれました。王さんのお宅はご家族が著名な音楽家だったため文化大革命では本当に大変な経験をされたようで、そういう話をしてくれました。それ以来中国が本当に身近な国になりました。

私も大学4年になり、当時は(今も?)卒業旅行というのをする学生が多かったのですが、私はとくに卒業旅行というものを考えていませんでした。しかし、みんなが行くというような話をちらっと父親にしたところ、世界を見るための旅行ならお金はだしてやるとのことでした。そんな安いお金ではないのに、この親の反応にビックリしましたが、せっかくの機会なのでニューヨークに10日のホームステイツアー行くことにしました。(最近、親と話す機会があったのですが、親は私が小さいときにアメリカ出張の機会があり(その当時(1970年代)はアメリカに一般人がいくというのはいろいろな意味で本当に大変だったようです。)実際にアメリカを見て本当にビックリしたようです。その時から一度は自分の子どもにも世界を見せてやりたいと思ったと言っています)

ここでも私は本当に恵まれていました。ホストファミリーは奥さんとご主人でご主人、チャーリーはベトナム戦争帰還兵(本当に大きい人で軍人という感じの人でしたが、体は大きいのですが、涙もろいところもあり、やさしい人でした)で定職がなく、奥さんが定職を持っているという家庭でした。二人とも本当にすばらしい人たちで、私のわけのわからない英語も一生懸命聞いてくれましたし、ご主人は私がいたときには仕事がなかったので車でいろんなところに連れて行ってくれました。でも、それは遊園地やビーチと観光地そういうところではありません。自分の友達や、自分の日常生活毎週行くようなところに連れて行ってくれたのです。車は日本では見ることのないような古い中古車で(実際に、交差点の真ん中でとまってしまいそうになったことが何度かありました)でした。ほかのホストファミリーに比べると大きいうちもない、立派なご馳走もない、ボートも素敵な車もないうちでしたが、このうちにはどのホストファミリーにも負けない大きくてあったかいハートだけはたくさんあり、たった1週間ぐらいではありましたが、コミュニケーションの醍醐味を再確認し、人間のあたたかさに包まれた一週間でした。(晩ご飯がツナサラダだけ、ナチョスだけというカルチャーショックはありましたが…)

この旅行は夏でしたが、王さん、チャーリーというすばらしい人にあったおかげでその頃までにはすっかり日本人だけではなくいろいろな人と話すことの醍醐味の虜になっていました。月並みですがいろんな歴史、地理でならったことは教科書上でのことではなく、そこでその時代に生きている人がいるんだということを身を以て感じたのです。そして、その人たちと一緒に笑ったり泣いたり起こったりすることで、その人達は違う言葉を話し、違う習慣をもっているかもしれないが自分とはなんらかわらぬ(当たり前のことですが)人間なんだということがおもしろくもあり、うれしくもあったのだと思います。

大学卒業直前の春休みには、九州からフェリーで韓国へ、韓国をバスで横断し、韓国から中国へもフェリーで、そして、中国をバスとその当時の硬座という一番安い電車を使って上海経由で香港までバックパック旅行をしましたことばがわからなくても、片言の英語(ほかのバックパッカーと)と漢字(中国の人たちと)で本当に豊かな実りあるコミュニケーションができました。

東京に就職してからも、これらのことが忘れられず、どこかいろんな人たちとコミュニケーションできるような場はないかと探していました。そんな時偶然に新聞で偶然日本語ボランティアの記事を見つけました。それが東京の世田谷にあるJCAという団体でした。そこでは私は日本語を教えるというよりはいっしょにおしゃべりをしたとう記憶しか残っていません。もちろん、ほとんど日本語を話せない方といっしょになったこともあるのですが、なぜか共通語がなくても一時間半楽しいコミュニケーションができたのです。韓国、タイ、ミャンマーなど独自の文字を持つ国からいらした方にはアルファベットで自分の名前をどうやって書くのか、また、ほかの国でも1、2、3はなんというのか、こんにちはは何と言うのか、とこちらが聞くと、どんなシャイな方でも心を開いて一生懸命私に教えてくれました。こんな風に書いちゃだめだよとか、発音が違うとか、いつも笑いながらあっという間に1時間半がたってしまいました。

1996年に渡米する前にも3回ぐらいバックパックの旅行をしました。ヨーロッパへは留学している友人を訪ねて、タイへはボランティアでご一緒した方のうちを訪ね、フィリピンでは前の年のバックパック旅行で知り合った人のお宅に、モンゴルではペンパル(懐かしい言葉ですね)の人のお宅にとめてもらいました。そして、たまたま自分が日本という場所に生まれおちてきたという偶然で、自分はなんと恵まれているのかということも感じました。が、それと同時にうしなわれているものも多いと思いました。日本では見ることの少ない目の本当にきれいな人たちにたくさんお会いしました。携帯もインターネットもない時代でしたが、行く先のわからないバスでねてしまったり待ち合わせ場所を間違えたりその日にとまる場所もないといったような今考えればおそろしくてできないようなことをたくさんしましたが、いつもかならず親切な人が私を助けてくれました。私は本当に幸運です。ほんとうにいろんな人との出会いがあり、お金には変えられない貴重な経験をたくさんしました。日本での仕事は営業の仕事でしたが、社内のポリティクスよりはクライエントの方と話すのが好きでした。私は基本的に人が好きなんだと思います。

日本語ボランティアをしながら生活しながらその国の言葉を学ぶという経験をしたいと思い、あるとき思い切って会社を辞め、渡米することになりましたが、今でも、このコミュニケーションの予期できない楽しさ伝えたいことが伝わらなかったときの悔しさ共感できたときの喜びは毎日のように感じています。..... 今もその王さんやチャーリーとの会話、そしてバックパック旅行は私の教室の中で続いているのです

ぜひみなさまも今回の「わたしが日本語教師になったわけ」にご参加を!

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コメント(3件)

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佐藤先生ってやっぱりコミュニケーションで生きているんだなぁ。語学の教師、天職なのではないでしょうか。
ai
2012/01/29 14:36
私もaiさんのコメントに同感です!!

「このうちにはどのホストファミリーにも負けない大きくてあったかいハートだけはたくさんあり、・・」の部分を読んで、思わず目頭が熱くなってしまいました。

本当に素敵なお話ですね。元気をもらえました☆

sk
2012/01/30 07:21
佐藤さん

参加してくださり、本当にありがとうございました。
こうしていろいろな人のライフヒストリーを読むことは本当に楽しいですね。次回もよろしくお願いします!
ぱんちょ
2012/01/30 19:39

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